HP03-161 |
桜の名所衣笠公園と鎌倉時代の雄、三浦一族の山城を訪ねる
衣 笠 山 きぬがさやま |
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トレック日 |
2009年1月25日(日)快晴
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標 高 標高差 |
衣笠山 134.2m
=鞍掛山(横須賀市説明板より)
標高差:55m、累積77m |
場 所 |
神奈川県横須賀市 |
メンバー |
湘南らんぼう・単独
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時 間
距 離 |
全行程:7時間
山行 :34分(歩25+休9分)
歩行距離:約1.3km |
移 動
P・WC |
バイク(BWs125)
P:有、15台位
WC:P、山頂に有 |
コース |
14:54衣笠公園Pスタート〜15:06山頂15:15〜15:19展望台〜15:28ゴール |
全行程 |
11:22茅ヶ崎発〜11:54片瀬海岸〜12:22渚橋〜12:39大峰山13:11〜13:25長者ヶ崎〜13:54〜14:15扇山調査〜14:50衣笠山15:35〜15:47衣笠城址16:21〜16:44立石7:07〜18:20帰宅 |
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↓地図↓ |
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葉山町の大峰山の次は横須賀市の扇山と思ったが、ルートが見つからず中止。
そこで、桜は咲いていないが、下見のつもりで衣笠山を訪れた。ここなら道が明確だろう。
アクセス:R134の林からの三崎街道を横須賀方向に向かう。衣笠ICを過ぎると左に衣笠公園入口の標識がある。 |
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↓記録写真↓ |
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衣笠神社の隣に衣笠公園のP、トイレがある。バイクを置き、スタート。
途中、気の早いツツジが咲いていた。
管理事務所を過ぎ、広場に着く。(写真左)
山頂と思い三角点の座標値を確認すると、ここではなかった。散歩している人に尋ねるともう一つ展望台があると言う。 |
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数分で次の展望台に着く。こちらが山頂のようだ。三等三角点は確認出来たが、山名の標識は見逃したか、無いのか?。
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山頂展望台より富士山方向を望む。肉眼では富士山の頭が見える。 |
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↓それから↓ |
衣笠城址 |
トレック日 |
2009年1月25日(日)快晴
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標 高 標高差 |
約100m
標高差:約75m、累積119m |
場 所 |
神奈川県横須賀市 |
時 間
距 離 |
山行 :28分
歩行距離:約1.5km |
移 動
P・WC |
バイク(BWs125)
P:なし、WC:大善寺横に有 |
コース |
15:47三浦縦貫道入口付近よりスタート〜15:57稲荷〜15:58城址〜16:06大善寺〜16:15ゴール |
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三浦縦貫道入口付近で散歩の人に登山口を教えてもらった。寺の方からも登れるが、バイクが入れるか解らないとのこと。
←この仮設のような入口から
15:47スタート。 |
最初は湿った土の階段で、滑りやすい。高速道路工事で、仮に作った登山道かも?数分で尾根に出た。→
広く歩きやすい。 |
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フェンス沿いに歩くとミニ岩場。(フェンスの中は竹林)
ここで犬連れペアとすれ違う。あれ!どこかで見たなと思ったら、衣笠山にいた犬だ。と言う事は、バイクで移動するよりも早かったということだ。知っていれば私も衣笠山から歩いてみたかったが、後の祭り。 |
岩場のピークにお稲荷さん。
案内板に書いてあった「物見岩」か?。
右の白い板に一句あり。
「朝日さし 夕日かがやく 西山の
稲荷の森は、黄金なるなり」
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次のピークは「衣笠城址」だった。
標高約100m、遺構や建物跡は不明。
すこし下に三浦大介義明公800年記念碑があり、広場になっている。
往路を戻らず周回してスタート地点に向かうことにした。。 |
平安・鎌倉時代の三浦一族の隆盛と没落の舞台であったことことは感慨深いものがある。 |
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城址から5分位下ると「大善寺」がある。寺の横を通り道路に出る。狭い道路なのでバイクを停めるスペースも無い。
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途中のお地蔵さんの所に「衣笠城址」の案内がある。
城址に興味があるわけではないので、素通りしただけだったが、楽しかった。
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↓衣笠城址の勉強コーナー↓ |
「三浦一族」は、桓武平氏の子孫「村岡為通」が源頼義に従い「前九年合戦(1051〜1062)」に参戦し、その恩賞として与えられた所領の地名を氏とし「三浦為通」を名乗ったのが始まりと伝えられています。
為通は所領の中心、衣笠に城を築きました。これが衣笠城です。
衣笠城を有名にしたのは、治承4年(1180)の衣笠合戦です。 ▼頼朝挙兵(石橋山の合戦)から衣笠合戦まで
この年、8月17日、源頼朝は平家打倒の兵を伊豆で挙げました。
三浦義明は、三浦義澄、和田義盛ら300余騎を頼朝の加勢に向かわせましたが、雨で増水した丸子河(酒匂川)で足止めされる間に、頼朝は石橋山の合戦で敗れ、箱根山中に逃れた後、安房に向かいました。
頼朝敗走の報を受けた三浦軍は衣笠城に引き返しますが、途中、鎌倉の由比ガ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇、合戦(小坪合戦)となりました。
この時は双方兵を引きましたが、26日に平家方の大軍が衣笠城に攻め寄せました。
攻め手の平家方は追手口より江戸重長・河越重頼・金子家忠など2000余騎、搦手からは畠山次郎重忠ら1000余騎。迎え撃つ三浦方は400余騎。三浦方は少数ながらも、多勢の平家方に対して奮戦したと伝えられています。
しかし、数に劣るうえ、小坪合戦で疲弊していた三浦勢の奮戦むなしく、衣笠城は落城しました。
三浦一族は城主義明を残し、源頼朝と合流するため船で安房に向かいました。残った義明は壮絶な最期を遂げました。
その後、頼朝と合流し平家追討に功をあげた三浦一族は鎌倉幕府内でも重要な位置を占め、再び衣笠城を拠点とし勢力を伸ばしますが、宝治元年(1247)第七代泰村が北条氏、安達氏との勢力争いに敗れ、衣笠城は廃城となりました。
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↓それからそれから↓ |
立石 48mm |
↓後記↓ |
片瀬海岸の富士に始まり、立石の富士で終わった。立石公園では、寒さにかじかむ手で日没前後の富士山を撮りまくった。甲斐有って↑夕焼けの富士山が撮れた。 |
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