HP03-105 日本百名山 安達太良山 あだたらやま
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山行日:2007年11月2日 天気:曇り/小雪/小雨
全行程:
↓8:31〜13:04 安達太良山登山
↓13:30 富士急ホテル発
↓17:34 秋田・柵の湯着

登山コース
↓8:31 富士急ホテルよりスタート
↓8:52 あだたらエクスプレス山頂駅
↓10:13 安達太良山、山頂
↓11:26 薬師岳パノラマパーク
↓11:34あだたらエクスプレス山頂駅、運行中止のため歩いて下山
↓11:54〜12:04 五葉松平で昼食
↓13:04 ゴール、富士急ホテル
標高:1,700m 標高差:+360m、-760m
i移動:車・C230 距離:7.4km(11,437歩)
全行程:9時間
山行時間:4時間33分
(歩4時間+休33分)
メンバー:せんぼく隊2名
(senboku隊長・たかちゃん副隊長)
場所:福島県 山のデータ:
日本百名山(21) 
花の百名山(33) 
東北百名山(旧版)(80)
東北百名山(新版)(80) 
P:スキー場なので大量にあり、今回は富士急ホテルPを利用
WC:ゴンドラ駅にあり
地図
↓記録写真↓
 昨日の那須岳は好天に恵まれたが、今日は朝からスッキリしない。
ホテルの泊り客は老夫婦、御殿場夫婦の3組だった。御殿場夫婦の夫は定年後の山歩きだそうで、昨日は車中泊、男体山登山をしてからあだたらに来たそうだ。一番乗りで朝食を始めたが、出発は御殿場夫婦に負けてしまった。我々と同じでゴンドラ営業開始を待っていたようだ。
 ホテルには高村光太郎の詩(樹下の二人)と皇太子とまさこ妃の冬の行幸写真がかけてあった。
 なーんだ登山じゃないのか、と言う程度で眺めたが、後日、深い意味?を知ることになった。(詳細は後記に続く)
←8:31 奥岳よりスタート。ホテルに車を置いたままで、あだたらエクスプレス(ゴンドラ)乗り場へ行く。→
←8:47 あだたらエクスプレス山頂駅。
8:52
登山スタート。「皇太子同妃両殿下行啓記念」の碑が建っている。階段、木道が整備されていたのは200m位までで、それからは土、石の登山道になる。
5分もしないうちに小雨、カッパを出していたらなんとではないか。今年の初雪はこの安達太良で見ることになった。

→ガスってはいるが山頂の乳首が見えた。雨・雪は、じきに止んだがだんだんと視界が利かなくなってきた。
←昨日の那須岳に続き、コメバツガザクラを見た。手にとって研究。
→岩場コースの目印は赤に白丸。
→10:09 山頂標柱あり、温度計が張り付いていて-5℃雪が降ったことから察するとおおむね正確かも。
御殿場夫婦は既に到着していて、シートを敷き休憩中であった。乳首はと聞くとパスとのことで、我々は
乳首へ取り付いた。右から巻いて、鎖をつかみ登る。

←10:14 山頂。祠と三角点がある。下りは登りと反対側に下りてみた。これといったルートは無く、どこでも下りることが出来た。山頂標柱まで戻ると、御殿場夫婦は下山したようで居なかった。ガスの中で記念写真を撮って下山開始。
→黙々と下る。50分位するとガスは無くなり、曇空だが下界が見えてきた低木の赤い実がキレイ。

11:26 薬師岳、パノラマパーク。祠と鐘がある。「この上の空がほんとの空です」と書かれた標柱がある。智恵子抄に関心がなければ何のことか意味が解らない。

二本松市街が一望だが、あいにくの空模様でスッキリは見えない。
11:34〜41 あだたらエクスプレス乗り場着。靴を洗い、下山した気分だったが、なんと、強風のためゴンドラが運行中止!往復キップはホテルで買ったので清算できないと!Wショック!待ってても何時動くか解らないし、歩いて下山するしかない。これでは、ホテルで風呂に入る時間もない!WWショック。

11:44 再び薬師岳、パノラマパーク。ゴンドラが止まっているため、登山道から数組が登ってきた。
←11:54 五葉松平。らしいが、看板の文字が消えているし、どれが五葉松かも解らない。気落ちして、腹がすいたので昼食にした。そう言えば、今日始めての休憩だ。
12:04 約10分で軽い昼食を終え、また下る。とんでもない悪路だ。ゴンドラがあるので、通る人も少ないから整備もされていないのだろう。そんな下山路でも所々の紅葉が楽しませてくれる。岩場が終わると黄色い唐松林がキレイだ。なんて、眺めながら着替えしたときにデジカメを落としてしまってあわてて引き返し拾う。ここで10分位のロス。
林道に出たので、渓谷の紅葉でも見ながら下ろうかと思ったが、入口が解らなかった。

13:04 奥岳に到着。やっとゴールだ。奥岳からは渓谷の入口があったが、もう疲れたので行く気力も時間もない。あだたらエクスプレスは止まったままだ。これで動いていたらもう立ち直れない程のショックだったろう。万歩計は11,437歩
天気が悪く、ゴンドラは止まるし、色々とあったが、山頂を踏めたし、終わってみるとマアマアの散歩だったかも?下りは辛いが終わると忘れる。
↓後記
 恥ずかしながら国語の勉強以外で高村光太郎の智恵子抄を読んだ事がなかった「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいといふ」の一節は知っているものの前後関係や意味を知ろうともしなかった。今回のホテルに掛けてあった詩を写真にとってあったので、読んでみた。智恵子抄の中の「樹下の二人」の一部だったのでネットで全文を読んでみると、良く意味が解らないにも関わらず光太郎の気持ちが怒涛のごとく伝わってくる。夫婦の情愛を想像し目頭が熱くなる。私にはこのように文字にすることは出来ないが、かくありたいと思った。皇太子とまさこ妃も同様ではなかったのだろうか?だとすると、皇太子、なかなかやるじゃないか。

勉強不足のため絶好の場所を歩く機会だったのに、ゴンドラが止まったことや払い戻しができないことなど考えながら歩いてしまったことが悔やまれる。
★樹下の二人★
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川
かうやつて言葉すくなに座つてゐると、
うつとねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう
あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉へがたい
妙に変幻するものですね
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川

ここはあなたの生まれたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川
「ほんとの空」って何だろう?

智恵子が恋焦がれた「ほんとの空」は、望郷の思いなのかも?、とすれば、「ほんとの空」はひとりひとりが心にもっているもので、私にとっては故郷の空間全てが「ほんとの空」なんだろうと思った。
国語の時間のようになってしまったが、この歳になって解るものもある。
★あどけない話★
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ

私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりとけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言ふ
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ

あどけない空の話である
以下はパクリの資料

『智恵子抄』〜純愛に生きた光太郎と智恵子

 明治から昭和にかけて、彫刻家、詩人、歌人など、幅広い分野で活躍していた芸術家・高村光太郎(1883〜1956)の代表的な詩集に『智恵子抄(ちえこしょう)』があります。
 その『智恵子抄』の主人公でもあり、光太郎の最愛の妻である高村智恵子が亡くなったのが1938年10月5日のことでした。
 高村智恵子は1886年、福島県の大きな造り酒屋の長女として生まれ「お嬢様」として育てられましたが、当時の女性としては珍しく、東京の大学へ進学。大学卒業後は実家に帰らず、画家として創作活動を行っていました。
 そんなときに出会ったのが、フランス留学から帰国したばかりの光太郎でした。
 デートで智恵子は光太郎と一緒に絵を描いたり、絵画や彫刻について語り合ったりしたそうです。そして、1914年12月、2人は友達の前で結婚宣言をするものの、「夫婦」の枠にはとらわれず、お互いの芸術性を高めるため、入籍はしませんでした。
 ところが結婚宣言後、智恵子に次々と不幸が襲いかかります。
 光太郎のすすめで、文部省美術展覧会へ絵を出品するのですが、あっけなく落選。小学校から大学まで常にトップクラスの成績をほこっていた智恵子にとって、初めて味わう挫折でした。さらに実家の造り酒屋が破産し、一家離散の知らせが届きます。度重なるショックで智恵子は精神分裂症に陥りました。
 光太郎は仕事もそっちのけで、気力を失った智恵子を湯治に連れて行ったり、デートの思い出の地を訪ね歩いたりして、智恵子の心をいやそうとしました。道中、智恵子が生まれた町の役場へ行き、正式に入籍の手続きも済ませています。智恵子が47歳のことでした。
 しかし、智恵子の病状は悪くなる一方で、ついには肺結核をも患い入院。最期は智恵子の好物だったレモンを手に「トパアズ色の香りの中(智恵子抄
「レモン哀歌」より引用)」で他界しました。
 光太郎にとって、最愛の人を失ったショックは大きく、智恵子の死後、共に生きてきた思い出を一心に書きつづって完成させたのが、この『智恵子抄』です。『智恵子抄』は恋愛が多様化した現代でも、多くの人に愛読されています。
調べついでに「レモン哀歌」とは?
これはキケン!
読んでる途中で感情がパンクします。
最後まで読めませんでした。
レモン哀歌
                  高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

 「智恵子抄」より
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